遠山の霜月祭

遠山の霜月祭は、地区によりタイプに違いがあります。
「飯田市文化財保護情報サイト」に詳細が掲載されています。ご参考にしてください。
全体の情報
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/shimotsukimatsuri.html#2
上町タイプ(この正八幡宮)の情報
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/shimotsuki-kamimachi.html

又、開催日程等の情報については、
遠山観光協会 特設サイトをご参考にしてください。
https://shimotsukimatsuri.com/


遠山の霜月祭(国指定重要無形民俗文化財 昭和54年指定)について。

(※ 遠山の霜月祭は、上村と飯田市南信濃の通称遠山郷と呼ばれる場所で開催されているが、舞の型や式次第の違いによって、上町系・下栗系・木沢系・和田系に分類されるため、ここでは、江戸時代から中心地として栄え、上村全体の本宮、正八幡宮がある上村上町地区を明記。)(註1,2)

【起 源】
承平年中(931-937年)、現在の上村上町で、旅人である老人を佐久麻呂が家に泊めた際、佐久麻呂は、この土地には未だ神が祀られていないのでこの土地に神を祀って欲しいと頼み、老人は木火土金水の農業の守護神五柱を勧請して祀り方を教えてくれた。さらに佐久麻呂は老人と京に上り、賀茂神社の湯立の儀式、宮廷の儀式等を見、男山八幡宮(石清水八幡宮)を分霊し、老人より五個の神面を貰い受けた。老人は熊野本宮の仙人であると名乗り、佐久麻呂は村へ帰り、分霊してきた男山八幡宮を正八幡宮として祀り、前の木火土金水の五神をこれに合祀し、神面を納め、神前にかまど作り湯立てを行った。これが上町の正八幡宮と霜月祭りの始まりであるとされる。

【歴史的背景】
遠山の名は、文治2年(1186)に『吾妻鏡』の条に年貢未納地としている荘園の中に「江儀遠山庄」に記され、理由として「鶴岡八幡宮寺の神領としては、信濃国唯一であり、交通の要衝にして豊かな林産資源に恵まれていたと推測される。」と述べられている。その荘園に地頭として配置され江戸時代初期までこの地を領有したのが遠山氏である。遠山氏はその後、家督争いや領内の騒動で江戸幕府に改易され一族は滅んだ。滅んだ原因は、百姓一揆や幕府がこの豊かな資源を狙ったなど諸説あるが、死後の疾病流行を遠山氏の祟りと怖れた村人が「遠山の霜月祭」にその慰霊祭を入れたとされる。

【特 徴】
旧暦の霜月に行われていた湯立神楽から霜月祭とよばれ、現在は新暦である12月に各地区で行われ、上町地区は12月10日に宵祭り、本祭が12月11日~12日の朝方まで3日間行われている。
神仏混淆の祭りで、特に遠山では、延々と湯立ての神事を繰り返し行う儀式的に整っている特徴をもつ。
「冬至における太陽の死と再生になぞらえて、神も人も自然も万物の命の復活再生・更新を図る重要な節目と考えられたからである。」また、祭りの最後に遠山氏の御霊や地元の神々の面が、人の中に登場し舞いを舞うという特徴がある。

霜月祭の中で遠山氏一族の面が次々に出てくることから、死霊祭の印象が強くあるが、祭りの根源は、死霊祭よりも以前であることは確かであり、霜月祭と天竜川流域の村々に伝わる祭りの系統、愛知県の花祭での行事と霜月祭の天伯は、いずれも村に災厄をもたらす邪神を鎮める意味の呪法であり、悪魔を払って、やがてくる新春の正気を呼び迎えようとするものであることも忘れてはならない。

【祭 式】
吉田流と呼ばれる流儀による両部神道(神仏混淆)の祭りであり、不動明王の尊容にかたどった装束の禰宜が、頭には烏帽子・肩には縛縄にあたるゆだすき・腕には百ハつの珠の数珠を掛け、手には神でいえば鉾、仏でいえば不動の利剣にあたる湯木を持ち、作法通り作られた湯殿の前に立ち、九字を切り呪文を唱え印を結び湯を立てて神に献じる。
これと同時に、神前では宮中に今も行われる黒酒白酒にあたる御白餅、きしめを神に献ずる。
湯立神楽行事で旧暦霜月に神々に湯を献じ自らも浴びて新たな年の生命再生を願う湯立神楽により神も人も生まれ変わるという信仰を伝え天下泰平、五穀豊穣を願うのである。

  • 式例祭日:宵祭 十二月十日、本祭 十二月十一日
    —–祭りの次第—–
    ・式例祭
    ・神事
    ・神名帳
    ・申し上げ
    ・湯立て
    ・倉開き
    ・面あらため
    ・装束舞
    ・鎮めの湯立て
    ・中祓い
    ・神返し
    ・お面の舞(神太夫・八社・稲荷・山の神・四面・天伯)
    ・金山の舞
    ・神送り
    ・遊びぬさ
    ・直会 等


「後継者育成活動と[子どもの舞]の誕生について」
 現在、上町地区では、毎年祭りが始まる2カ月ほど前に、小学4~6年、中学生を対象に舞を指導する後継者育成活動が行われている。練習に参加した子供は、本祭20:00から始まる「子どもの舞」に参加する。「子どもの舞」の内容は、小学生の「四つ舞」と、中学生の「襷の舞」で、これは、その後に大人が舞う22:00~「四つ舞」、翌2:00~「襷の舞」を簡略化したものである。

子供の頃に体で覚えたことが、そのまま大人になって生かせるように、こうした育成活動の成果は、祭りに携わる全ての大人に結果がでていると考えていた。
しかしながら、2016年1月に行われた霜月祭慰労会にて調査したところ、笛・太鼓・舞が「できない」「舞えない」という声を多く聞いたのである。特に60歳~75歳位の方が多く、氏子総代長の佐々木久義氏は、その理由を「舞いを教わっていないからだ」と語った。
続けて佐々木氏は、「子どもの舞」が始まったのは、昭和43年(1968)からで、それ以前は「教わるものではなく、見て覚えるもの」、「大人の人数が多すぎ、社殿に入れず祭りを見ることができなかった」と語ってくれた。
では、この「子どもの舞」は、どのような経緯で、式次第に加えられたのかを調査してみた。

現在の上町祭り保存会長の鈴川術氏によると、昭和43年、鈴川氏が小学6年時、地区在住の小学4~6年男子を対象として練習が行われた。練習内容は、4~5年生が笛・太鼓、6年生が四つ舞をし、その年の霜月祭で、初めて「子供の舞」として祭りに参加したと語ってくれたが、誰がどのような経緯で始めたのかは、不明であった。
そこで、旧上村村長の山﨑昭文氏に取材したところ、「岡井先生や山口儀高氏らが、子供への指導を発案し、禰宜である宇佐美虎之助氏の了承を受け、保存会のメンバーによる育成が始まった。」と語ってくれた。
ここで、なぜこの時期に子供への育成を思い立ったのか疑問が残る。その件について山崎氏は、上町地区は人が多かったが、隣の地区(中郷・下栗)は、人口流出が激しく、祭りの存続を岡井・山口両氏が危惧したのではないかと語った。(註3~7)

人口推移を調査すると、大正14年2432人、昭和25年2655人と人口増加していたが、その後の昭和40年には1806人と減少していることがわかる。(参2)
この人口増加は、明治28年に、王子製紙による遠山共有林への伐採事業に伴う従業員・人夫によるもので、昭和に入り伐採による山林資源が減少すると、事業の衰退が人口減少した原因になっている。山林資源の減少は、林業を生業とする多くの住民に影響を与えた上に、昭和28年の大洪水による被害で、一家での転出が多かったとされる。(参1)こうしたことから、人口減少が後継者育成に着手した要因の一つであると考えることはできる。

さらに、岡井・山口両氏が行った育成指導で注目すべき点は、舞の型を忠実に伝承しようとしたことにある。それまで、舞いの教本も無く、見て覚える・個人的指導のもと、各々の舞いの誤差問題を、統一した指導で改善させたのである。

2-2.地元生活者の研究と記録
岡井氏は、「地元で医者をしながら、自らも積極的に祭りに携わり、いち早くこの祭りの価値を感じ、とにかく不明な点を聴き取りしておこうとした方である。」(参4)と著述されているように、岡井氏は、正八幡宮禰宜であった宇佐美虎之助氏との共著(註8) で、祭りの起源や伝承など発掘・記録している。又、山口氏も岡井氏に影響を受け、祭り保存会長を務めるなど積極的に活動した一人でもある。

岡井氏たちは調査する中で、この祭りを伝承させる必要性を考えたと思われる。

この後、昭和45年(1970)に県無形文化財に認定、昭和53年(1978)に国の重要無形民俗文化財に指定され、上町保存会の「記録簿 昭和56年1月」(画像1、註9)には、全ての住民に対し、祭り練習への呼び掛け文が添付されている。(画像2) そこには、祖先から受け継いだものを次世代へ引継ぐ重い義務の覚悟、伝統神事を誤りなく的確に子孫に伝承することなど、氏子総代会・上町区長・保存会の連名で書かれ意識の高さがうかがえる。

現在、上町地区の59歳以下で子供の頃に指導を受けた者は、数年のブランクがあっても「できない」「舞えない」ということはない。式の詳細も舞の動作も記録や書籍に残したことで、伝承者が変わっても誤りなく的確に伝承することに繋がっている。これは、昭和43年に将来を危惧して始めた育成指導と実践の「子どもの舞」を加えた成果である。このことは、実際に祭りに携わる地元住民たちが、調査や行動を起こしたという点で、意義深いものと考えるのである。

今回の取材の中で、祭りに参加できないという人も少なからずいた。理由として、宗教上の問題の他に仕事や学校を休めない、子供の頃に習っていないから出来ないなど、祭りの開催日時や三日間という日程の長さ、舞いを習ってこなかった世代など、問題が浮かび上がる。参加できない人でも、祭りが嫌い、無くせばよいという声はなく、続けた方がよいと語ってくれた。

現在、上町地区の住民の総数は124名(註10)で、その中で実際に祭りに参加できるのは20名程度と、地域の力や対策だけでは難しい状況となっている。行政による地域協力隊員の取り組みも対策の一つであるが、今後、参加したくてもできない状況を少なくするためにも、学校や企業といった社会全体に、伝統文化継続に対する理解と協力を求めていく必要もあると考えるのである。


   【参考資料】
参考1
・長野県教育委員会編『遠山まつり 写真 信濃風土期3』長野県印刷所1956
・上村発行『信州上村 霜月祭 再版』新葉社  2004
・上村民俗誌刊行会『南信州・上村 遠山谷の民俗』1977
・上村遠山祭保存会『遠山霜月祭〈上村〉』秀文社 2008
・三隅治雄『日本民俗芸能概論』 東京堂出版 1972年
参考2
・ 飯田市美術博物館/柳田國男記念伊那民俗学研究所編集発行
・『遠山谷北部の民俗』秀文社2009 p26
参考3
・桜井 弘人「遠山霜月祭の湯立てとその構造1 -上町タイプを中心として-」飯田市美術博物館研究紀要 (12), 163-200, 2002 p164
参考4
・後藤総一郎・遠山常民大学編『遠山の霜月祭考』南信州新聞社 1993 p32
その他
・宇佐美千尋 「遠山の霜月祭」卒業論文
・上村教育委員会作成の看板、その他。

【注記】
註1 2005年10月飯田市へ合併し長野県飯田市上村となる。それ以前は長野県下伊那郡上村である。
註2 現在の上村は上町・中郷・程野・下栗の4地区。江戸時代には、門村(かどむら)と呼ばれ、現在の上町を本村とし、中郷村、程野村、下栗村は、門村の枝村とされていた。
註3 上町霜月祭慰労会2016年1月19日、清水屋焼肉店(上村上町)18:30~
参加者:約20名(祭りに関わる住民、誰でも自由参加)
註4 上町祭り保存会とは、地元住民による有志である。人数30名
鈴川術氏(59歳)取材日2016/ 1/19(慰労会)と2016/2/5、22(電話取材)の3回
註5 山﨑昭文氏(80歳) 取材日2016/2/5 山崎氏自宅にて。1995年~2005年飯田市合併までの旧上村村長を務めている。村長就任前、村議を5期、当時の下伊那南部農協の常務、専務、副組合長を務めた経歴を持つ。
註6  岡井一郎氏(明治45年生まれ・故人)上町に居住、村で開業していた医師。
岡井先生と呼ばれていた。
山口儀高氏(大正元年生まれ・故人)上町に居住、山口屋(食品・酒類販売)店主
岡井氏の影響を受け、祭りに関心を持つ。
註7 女子の参加について、『遠山谷北部の民俗』(参2-p309「小中学生の舞」では、昭和40年代に女の子に羽揃え舞を教えたとあるが、当時の女子が参加していないと語る、他の取材でも女の子が居た覚えがないといつ頃から女子が参加したのか不明である。
註8  岡井一郎『遠山郷 [霜月祭]』天龍文化新聞社1956
上村教育委員会『信州上村 霜月祭』1971年
上村民俗誌刊行会『南信州・上村 遠山谷の民俗』1977
註9 「記録簿 昭和59年1月」現正八幡宮宮司、宇佐美秀臣氏保管。
初の上町保存会による祭りについての準備、会合などの記録簿である。
註10 2016年1月1日現在の人数、上町自治会役員、宇佐美秀臣氏に確認。

レポート作成:宇佐美真弓


祭りの準備の様子

【湯木割り】

【川辺へ禊ぎ場作り】

【上村保育園児のご奉仕】          【注連縄作り】

【鳥居用大繩作り】              【竈修復作業】

【湯の上飾り付け】
 

【甘酒作り】
 

【湯木】

食事の用意

※その他、諸々を少人数でこなしています。

祭り準備整いました。