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 「上町の事の神送り」について

令和6年(2024年)に行われた「事の神送り」の様子。←クイックして下さい。

 上町地区で、現在2月8日に近い日曜日に行われている年中行事「こと神送り」について、同地区住んでいる56歳から89歳までの人に聞き取り調査と考察をのべる。
 Ⅰ.聞き取り調査
①こと神送りとはどのような意味をもつものか。
辞典では「[神送り]とは、自分たちの領域から神々を送り出す行事や儀礼」とある。
56歳男性の10歳頃の話、「こと神送り」の「こと」とは、流行病のことであり、流行病は神様がもたらすものとして考えられていたので、「こと神様」がこの地区に留まらないように送る行事と考えられてきた。
76歳男性の15歳頃の話、上町地区の南端の家から北端の家まで、秋葉街道の流れで行われ、風を送ることで、病気を送り風邪を引かないようにとの意味であった。
 
②いつ、どこで行われて、どのような内容であったか。
 89歳女性の子どもの頃(年齢未定)の話、「こと神送り」は、節分の後の春2月8日と秋11月の年二回行われていた。疫病が、春(2月)は南風に乗せて北へ行くように、秋(11月)は、北風に乗せて行くという村の境までの行事であった。
 65歳男性の710歳頃の話、紙を切り棒につけた「お宝」と呼ぶものに、各家の病気などをのせて玄関先に置き、その家の子供や、他の子供たちが集めて回り、禰宜が叩く鐘の合図で集まり、禰宜と役員(4名程度)の後について、地区の南端の宿から北端までの宿までを歩き、地区外れでお宝を決まった場所に置いてきた。
 83歳と80歳の御夫婦、25歳と22歳頃の話、その日は、風邪をひかないように家で豆腐とネギと煮干しダシをとった汁を食べた。
 
Ⅱ.「こと神送り」を現在と比較して考察。
 現在、上町地区で行われている「こと神送り」では、神社に老人会が集まり5色の紙でお宝を適当数作り、老人会がお宝を持ち、宮司と老人会に続き地区の住民が練り歩き、神社裏手で禰宜がおはらいをしたのち、お宝を決まった場所に置くのである。汁物(豆腐とネギ)も同様に老人会が作り、宿に来た人に振る舞っている。
 子供が集めたとされた「お宝」が、老人会に移ったのは、子供の数が100人以上から数人程度に減少したことがある。
 50年前の子供は、食べ物がなく学校帰りにお腹が空いていたが、集めて回るとお礼に少し豆腐を食べられるので、集めて回ったと調査ではありました。現代では子供が集めて回る必要も、豆腐を食べる必要ものなくなったという現状でもある。
 
 調査から、道路改良・南端、北端の家の事情・自治体による行事の執り行い、児童減少により、ルートや宿や内容が変化してきている。
 
 今回特に印象の残った話では、「近くの地区でも行われていた[こと神送り]は戦後に減った。その理由は、近代化の流れへの後押しが強く、信仰的なもの、古いものは失われていったと思う。」と前出の89歳女性が語られました。
その中でも、現在も、今だこの地区に継承されているのは、時勢や状況といった変化に対応してきたことや、続いている地区の行事を行うという団結力が根底にあったと考えるのである。
 
参考文献:①『日本民俗大辞典 上』1999 吉川弘文館 p397
レポート作成:宇佐美真弓
 
参考メモ
上町 事の神送りメモ
 
 

「的場稲荷神社初午祭」と「講」を考える

毎年初午の日、上村風折地区にある的場稲荷神社で初午祭りが行われる。十数戸の小さな集落風折は、上町と中郷の境の山肌にある。「的場」とは、昔この地方を治めていた遠山土佐守が、対岸に向かって弓を引いたところからこの名が付いたと言い伝えられている。
祭りは、前日に宵祭、翌日の本祭は昼頃から「座ぞろえ」が行われ、神官により御神酒が供えられ、六根のはらいなど各種の御祓いが行われます。
(2018現在は、宵斎はなく本祭のみ)
神前には、おいやし(お白餅)が供えられ、庭には神の依代「おわき」が立てられます。ひととおりの神事が終わると、四人が鈴と扇を持って舞う「四つ舞」が奉納され、続いて大黒さまと蚕玉さまの面が登場する。
太鼓と笛に合わせて大黒舞の歌が歌われ、大黒さまが面白おかしく舞い、その後ろを、女の衣装をした蚕玉神が静々とついていきます。ひと舞して終わり、その後直会。

 各地で「初午祭り」が行われるが、稲荷は「倉魂神稻」(うがのみたまのかみ)を祀ったもので、本来は、田の神すなわち農業神であるといわれている。
 この「的場稲荷神社」は、養蚕の守り神である蚕玉信仰と、福の神大黒天信仰とが結びついている。稲荷信仰の原初的形態を残している貴重な祭りと言われている。
「初午」とは、「二月の初めての午の日を初午といい、稲荷の祭りを行う。」(①
この地域では、「的場稲荷神社初午祭」として、旧暦で初めての午の日に近い三月の日曜日に毎年行われている。常会(その地区の人)と稲荷講の両方の世話人と、近くの地域の協力者により、祭りは執り行われている。
 
「[稲荷講]とは、稲荷信仰に基づく講。村落内部を区分した組あるいは組合、講中と呼ばれる小地域集団で構成されていることが多い」(②
 ここでの現在の講のメンバーは、近くの商売や山を所有する人たちであり、現在5~6人の参加者となっている。
 
 初午祭では、神事・神の舞の奉納・稲荷様・大黒様・蚕玉様と面をつけた舞の奉納を、すべて男性が行い、直会では、囲炉裏で焼いたサンマ、けんちん汁、お菓子などを飲食し、輪になって互いの近況など雑談、祭りの反省、次回の初午祭りの予定などを話し合い、半日程度で全てが終わる。
 直会も以前は男性が支度をしていたが、現在は、女性が準備を手伝うことで直会も男女同席で行われている。
 
 地元の書籍には、「ある時期上町を含む33戸が講を作り商売繁盛の稲荷を迎え、地域の繁栄を願うようになった。」(③ と、この神社で12月に以前行われていた新嘗祭、「二十三夜講」の繁栄が書かれている。
 常会の59歳男性の20歳頃の話によると、「前日の宵祭りの直会は、夜遅くまで集まった仲間と雑談や麻雀をするなどを楽しむために講に入る人が増え、参加者も多かった。20年前から徐々に人が減少していった。」と語る。
 人手不足により、参加者・奉納が減り直会での料理の数も減少。来年度からは宵祭りもなく、本祭のみと益々縮小傾向にある。
 
 問題点として、人口減少による参加者の減少のせいであると、地元の人たちは口にする。しかしながら、人口減少だけが講や祭りへの参加者減少に繋がった訳ではない。山林を所有するが、養蚕や林業を生業としている家はなく、現在の商売との繋がりを考えなくなっていることがあげられる。
 また、伝統的な講・宗教的な機能としてのものに対しての意識や考えの変化や低下があると考えられる。
 
 現在、この地区では山の景観をアピールした観光事業が大きく栄えている。それに伴い、地元の物産、飲食店、宿泊施設など周辺の商売は活気を見せはじめている。自然だけでなく、遠山の霜月祭といったお祭り自体を目的に来訪する人も増えている。
 生業は変わっても、この地域の自然と伝統行事は、一つのテーマで繋がっており、その恩恵を時代を経ても我々は受けている。
 その恩恵の気持ちが心のどこかにあるからこそ、地区住民は少人数になっても尚、かつて「商売繁盛の稲荷を迎え、地域の繁栄を願うようになった。」ことを忘れずに、消えそうになる火を灯し続けているのである。
 平成三十年現在、遠山郷へは日本国内各地~海外からも来訪される時代になりました。その目にする景観や口にする自然の食材、大きなお祭りに意識が行きがちですが、講や的場のお祭りといったものにも触れて頂き、地域を知っていただけるといいですね。
 
 
①福田アジオ、他共著『日本の年中行事辞典』吉川弘文館p62
②『日本民俗大辞典 上』1999 吉川弘文館 p117
③飯田市美術博物館『遠山谷北部の民俗』2009 秀文社 p266
 
レポート作成:宇佐美真弓